荒井神社の歴史
由緒
第34代舒明天皇元年(629)、大己貴神を奉斎する出雲氏族が自己の偉大なる神の霊をいただきもちて、瀬戸の海づたいに進出して、荒井の浜を開拓し、ここに永住するため当社を創建したのがはじまりである。
平安時代には、この荒井地区が朝廷に年魚(鮎)を献上していたことから「御厨庄」と呼ばれ、神社古記録にも「播磨国御厨庄荒井神祠」と記される。
鎌倉時代以降は、武士の崇敬を受け、文明年間(1469~1487)播磨の太守赤松右京大夫政則により社殿は再建せられ、延宝9年(1681)には姫路藩主松平大和守直矩が当社に神田を献じた。
明治41年(1908)、荒井村の惠美酒神社を合祀する。
昭和18年(1943)、本殿以下の社殿が造営される。現在、旧本殿は美雄弥神社として荒井町の戦歿者を祀る社殿になっている。
昭和26年(1951)に、神話「イナバの白兎」に因み名付けられた神社付属の保育所、「白兎愛育園」を境内地に創設し、令和2年(2020)には保育所型認定こども園へ移行し、現在に至るまで地域福祉の向上に寄与している。
輪番で斎行される国恩祭の記念事業として、昭和56年(1981)に参集殿を、平成3年(1991)には神門、また、平成14年(2002)に歴史資料館を建設する。
重要な神事・伝統行事
こしきとり神事
秋の例大祭で、御神前に供えられる神饌を調理する神事。浄暗のなか、三升三合の新米を蒸し、美しく円柱形に整えられる。奉仕者は、口に半紙をくわえて、終始無言にて行う。また、当社には、氏子の中から祭礼などの世話役をつとめる「頭家」を選ぶ制度が古くから残っており、この神事も頭家によって奉仕されることから、民俗学的にも貴重なものといえる。なお、女人禁制の神事である。
仁輪加太鼓(にわかだいこ)
秋の例大祭に奉納される播州の郷土芸能。少なくとも江戸時代中期には始まったとされる。舞子の華麗な踊り、乗子の躍動感あふれる撥さばき、担ぎ手の勇ましい掛声が一体となり、勇壮かつ優雅な寸劇を披露。秋祭りでは2日間町内を練り、各所で芸披露を行う。毎年、異なる題目を用いるため、歌詞や太鼓屋台にのせる造り物なども変わり、観る者の目を飽きさせない。ちなみに造り物は、すべて神社青年会若衆の手作り。平成22年、高砂市民俗文化財に指定される。